進退きわまって、どうにもならないときに、なかなか諦めないこと。
このことわざは、仏教語の「往生」を元に生まれました。往生の本来の意味は、「この世を去り別の世界に往って新たに生まれる」というもので「輪廻転生」を表す言葉です。 ここでの別世界とは六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界)のことを意味します。
大乗仏教が興起し、浄土思想が広がるにつれて、阿弥陀仏の名号を念ずれば、その功徳により、阿弥陀仏の仏国土(浄土)に往って、新たに生まれることができると考えられるようになりました。
そこで仏弟子になり、お釈迦様の教えを守り、念仏を唱え、天寿を迎えて安らかな死に臨む人を「見事な大往生ですね」とたたえました。反対に臨終を迎えても、正しい信心を持てない人の場合を「往生際が悪い」といいました
現在では「往生する」を「死ぬほどに、進退きわまって、どうにもならない場合」「困り果てて閉口する」とらえ「往生際が悪い」を「諦めが悪い」「困り果てて進退きわまり、どうにもならないのに、なかなかあきらめない」という意味で使われます。
話は変わりますが浄土はいくつあると思いますか?「極楽浄土はひとつだけ」と思われるかもしれませんが、じつは浄土は仏国土とも言いまして、仏様・菩薩様一人ごとに一つずつの仏国土(=浄土)があります。
例えば
薬師如来 東方 浄瑠璃世界
阿弥陀如来 西方 極楽浄土
観音菩薩 南方 補陀落浄土
釈迦如来 霊山浄土
ビシャルシャナ仏 蓮華蔵世界
など無数の浄土(仏国土)が存在すると説かれています。日本では阿弥陀仏の「西方極楽浄土」が有名で、浄土といえば極楽浄土を指すようになりました。
死ぬ覚悟で決断し必死の思いで物事を実行するたとえ
清水寺は、京都東山の名刹です。平安時代以来の御霊場で、西国三十三所の第十六番札所としても有名です。御本尊は十二面観音をおまつりしており、尊崇を集めています。
その観音堂の舞台が切り立った崖の上に設けられていて、そのため「清水寺の高い舞台から飛び降りるように、死んだつもりで覚悟を決めて正念場に立ち向かう」と決意するたとえです。
普段何気なく用いている「覚悟」は苦行を捨て、菩提樹の下に座して悟りを得たことに由来するとても重要な仏教語になります。
「覚」も「悟」も目覚めること、真理を会得することを表します。やがて「物事に対処する心の準備」の意味になり、次に「覚悟はよいか」など心構えや決意の意味に転じて用いられるようになりました。
良い行いには良い報いがあり、悪い行いには悪い報いがあること。
「因」は原因で、「果」は結果を表す仏教用語です。そして「良いことをすれば良い結果が生じ、悪いことをすれば悪い結果を招く」という「善因善果・悪因悪果」(ぜんいんぜんか・あくいんあっか)は仏教を貫く教えになります。
私たちの日々の行いは消しゴムで簡単に消せるものでもなく、ゲームのよう簡単にリセットボタンを押してやり直すことも出来ません。仏教では「過去の善悪の行いが原因となり現在の幸不幸の結果を招き。現在の善悪の行いが原因となり未来の幸不幸の結果を招く」という過去・現在・未来の三世を結ぶ因果関係を説きその究極が「生前の行為によって、人は死後に地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界の六道に生まれ変わる」という生死輪廻の教えに結び付いていて仏教では現世での善行を勧めています。
六道輪廻の思想:生前の行為によって、6つの世界をグルグル輪廻する
天界 : 快楽の果てに待つ苦しみ
人界 : 悟りの道が開かれている世界
修羅界 : 終わりなき怒りの世界
畜生界 : 人間に使役され互いに殺傷し合う世界
餓鬼界 : 永遠の空腹に苦しむ世界
地獄界 : あらゆる苦しみを味わう世界
嘘をつくのは良くないけれども、時と場合によっては物事を円滑に運ぶ手段として用いることも必要ということわざ
仏道修行者や仏教信者たちは「五戒」を定め守ってきました「五戒」とは
①殺すなかれ
②盗むなかれ
③よこしまな男女関係を持つなかれ
④嘘をつくなかれ
⑤酒を飲み 酒に飲まれるなかれ
となります。この「五戒」は仏教の基本の教えであり、人として守るべき社会規範です。
この中にある嘘をつくなかれと、嘘も方便の嘘とはどう違うのでしょうか
「方便」の言語は
近づく・到達する・巧みな手立て・便宜的な手段・工夫
などを意味するサンスクリットの「ウパーヤ」で、さらに時と場合によって物事を円滑に運ぶための便宜的な手段の意味も含まれます。これが仏教に取り入れられ「方法便用・・・より良い方法をもちいて迷える人々を教え導くこと」の意味で用いられるようになり、お釈迦様の対機説法(人々の能力や素質に合わせて行う説法)となりました。
本来仏教では人々を真実に導くためにつくお釈迦様の嘘のみが善功方便として認められています。頑迷な人々のために、時にはわざと嘘をつかなければならず、その嘘をついても許されるのは真実に導く覚悟と能力を持つお釈迦さまや仏様だけとされています。
①ともに極楽に往生して、同じ蓮の台に生まれること。
②行動や運命を共にすること。
蓮は泥の中に育ちながら清らかな花を咲かせる極楽浄土を荘厳する聖なる花と言われ、その蓮の台座は仏や如来が坐するにふさわしいものであり、極楽往生した人が座る台座とされています。
現代では
「こうなったらお前と俺は生きるも死ぬも一蓮托生だ」と結果の善し悪しにかかわらず、行動や運命を共にする意味で用いられたり、
「まさに一蓮托生で仲間5人がイモずる式捕まりました」と悪事の罪を共に受けるような使用例が多くみられますが、
本来の意味は①で由来は浄土宗の開祖である法然が晩年に法難に出遭った時のエピソードで、法難によって法然が四国への配流されてしまうのを阻止できず別離を悲しんだ理解者である 九条兼実 に対して「大丈夫、一蓮托生です。念仏を専修するあなたは私(法然)と一緒に極楽浄土の七宝池に咲く同じ蓮の台に共に生まれます。」と励ましの言葉を伝えたことからきています。
蓮の台は極楽に往生した人が座る台座、托生は身を寄せて生きることを意味します。
夏の暑さも「秋の彼岸」のころに一段落し、冬の寒さも「春の彼岸」のころが峠で、春秋の彼岸をすぎればしのぎやすくなるとの意味
春と秋のお彼岸(彼岸会)は牡丹餅を作り先祖の供養のためにお墓参りするなどお盆と並ぶ日本人の代表的な仏教行事の一つです。仏教用語の「彼岸」は「此の世(此岸)に対してのあの世、悟りの世界」を表す言葉になります。
お彼岸とは中日を挟む前後三日の七日間を差します、中日は「春分」の日、「秋分」の日にあたり、太陽が真東から昇り、真西に沈み、冬が去って春となり夏が去って秋となる節目の日になり天地諸神や陰陽が交代する重要な日とされています。
またお彼岸は、お盆と並ぶ代表的な仏教行事になりますが、日本古来の民俗行事を習合して平安時代から行われるようになった日本仏教独自のものと言われています。
本日より「春のお彼岸セール」開催します。
暦の上では春になりましたがまだまだ寒暖が激しく、体調管理が難しい時期ですが体に気を付けてお過ごしください。
さてお彼岸まであと1ヶ月となりました。「みわき」では「春のお彼岸セール」を本日よりお彼岸明けまで開催いたします。お仏壇をはじめお仏具・線香・念珠・手元供養用品などセール価格にて展示しております。一度ご覧になってはいかがでしょうか。
仏壇では人気の家具調仏壇から伝統的な仏壇、壁掛けタイプの仏壇などいろいろなタイプの仏壇・いろいろな大きさの仏壇を展示しております。お客様のお探しになっている仏壇がきっと見つけていただけると思います。
近年様々な供養の形として手元供養が見受けられてきました。当社ではお客様のご要望にお応えできるよう品揃えを豊富に展示しています。ミニ骨壺・ペンダント・お祀りステージ・形見入れなどご用意しております。
お彼岸を迎えるにあたって長年お祀りしているお仏壇の修復・掃除などご検討してみてはいかがでしょうか?お仏壇の表面に付着したヤニや汚れを落とすだけでもかなり綺麗になります。お仏壇の大きさ汚れの程度によって価格も変わりますので一度拝見してからお見積もりさせていただきます(お見積もり代は無料です)
あわせてお位牌の掃除も承っています。表面に付着したヤニはもちろん薄く読みづらくなった文字に金を入れなおせば亡くなった方も喜ばれると思います。
長くなってしまいましたが春のお彼岸セールを開催していますのでよろしくお願いいたします。 合掌
お互いの気持ちや呼吸がピッタリ合うこと。
お経を記した古代インド語のサンスクリット(梵語)には12の母音があって、最初の母音が『阿』で最後の母音が『吽』になります。『阿』はすべてのものの始まりを示し、『吽』は一切の終極をあらわしています。
また『阿』は口を開いて発音する音で『吽』は口を閉じて発音します。ことわざの元々の意味は吐く息と吸う息を合わせることです。転じて二人の呼吸、調子がぴったり合うことを表すようになりました。
たとえば相撲の仕切りで双方の呼吸が合って見事な立ち合いになることを「阿吽の気が合う」と言ったりします。
寺院の山門にいる仁王像や神社の参道にいる狛犬・狐が片方が口を開きもう片方が口を閉ざしているのが見受けられます。これは阿吽の二字をあらわしたものになります。
言葉を用いずに、お互いの心と心を通じ合わせること。
禅の「無門関」の中の「世尊拈華」にて、お釈迦様が説法中に、一枝の蓮の花を手に取り聴衆を見渡しますと、お弟子さんがただ一人にっこりと微笑みました。すると、お釈迦様は「私は今文字を用いずに弟子の一人に禅の教えを伝えた」と記してあります。
本来は「禅の教えなど、文字や言葉では表現できない奥深い真理や悟りの核心を師匠から弟子に伝えること」を意味する禅門では重要な言葉だったが、
現在では
「文字を用いずにお互いの考えや気持ちを伝えていく」や
「暗黙のうちに自分の思っていることを相手に伝える」
という意味で用いられます。
一生にたった一度の出会い。今日は二度と巡ってこない。今日の出会いは、今日だけのもの。
一期とはある決められた期間、一生涯。生まれてから死ぬまでの一生という意味があり、仏教では修行の年限の区切りを「一期」といいます。
茶道でも「一座一会」といって、「その日の出会いが、まさに、その日かぎりのものである」と説いていて、この考え方は禅の根本思想に通じるものです。禅では修行に没頭して、その修行にひたりきることが悟りを得る方法となります。
「森羅万象のすべてが変化するもの」
「一生に一度しか会えないもの」
「一度かぎりの出会いという覚悟の中に修行がある」
とされています。
「一期一会」という言葉には仏教の無常感に加え、禅の精神が深く秘められていることわざになります。